成果

世界最高分解能のスピン・角度分解光電子分光装置の開発に成功
〜超高効率スピン検出器により磁石の起源となる電子のスピンを従来の10倍の精度で観測〜

ポイント

概要

国立大学法人広島大学【学長 浅原利正】放射光科学研究センター【センター長 谷口雅樹】(以下「HiSOR」という)の奥田太一准教授、宮本幸治助教らの研究グループは、従来の100倍高効率のスピン検出器を実用化し(図1,2,3)、高性能の光電子アナライザーと組み合わせることで従来の10倍のエネルギー及び角度分解能でのスピン・角度分解光電子分光装置の開発に成功しました(図4)。電子スピンの動きを鮮明に可視化することにより(図5,6)、科学の基礎研究に大きなインパクトを与えると同時に、次世代電子デバイスとして期待されるスピントロニクス材料などのスピンを利用した電子材料の開発研究に貢献することが期待できます。

本研究成果は、新装置に関する米国の専門誌 Review of Scientific Instruments 82 103302 (2011).に掲載(オンライン版10月21日付)されました(PDF)。

研究の背景

金属や半導体などの物質の電気的な性質は、その物質内で運動する電子の、運動の方角(運動量)とエネルギーの状態で理解されます。これらの状態を直接観測する最も強力な手法として、角度分解光電子分光法があります。この手法は、物質に光を入射し光電効果*1によって物質内部から飛び出してきた光電子の放出角度とエネルギーを分析し、その電子の数を数える実験手法です。ここで、光電子の放出角度は運動量と一対一に対応しており、光電子の放出角度を分析する事で電子の持つ運動量を知ることができます。この角度分解光電子分光法*2は、長年の装置の改良により、高エネルギー分解能(数meV)と高角度分解能(<0.3°)が達成され、高温超伝導体やナノ構造物質といった新しい機能性をもつ材料研究において多くの成果を収めてきました。

一方、物質の磁気的性質は、おもに電子のスピン(自転)*3に由来します。例えば磁石の中ではスピンの向きがそろった電子が運動しています。電子の運動エネルギー、運動量に加え電子のスピンの向きを精密に調べると磁石の性質が詳しく分析でき、電子のスピンを利用した新しい省電力・超高速デバイスや高密度メモリーの可能性が拓けます。すなわち物質の性質を理解するためには、物質内にある電子の運動量・エネルギーだけでなくスピンの状態も理解する必要があります。そのための唯一の実験手法が、光電子の運動量・エネルギーを分析する角度分解光電子分光法にスピン分析技術を組み合わせたスピン・角度分解光電子分光法です。

ところが今まではスピン検出器の効率が極めて低く、スピン分解能力が0.1、つまり10個の電子のうち1つの電子のスピンを検出する能力しか有りませんでした。そのため、装置全体の検出効率を高める事が出来ず、エネルギー分解能が百meV、角度分解能が2°〜3°程度と、通常の角度分解光電子分光法に比べ分解能が10倍も悪く、スピンに関わる物質現象を解明する上で大きな足枷となっていました。

スピンが関与する様々な物理現象を理解し、それらを有効に活用した高機能性材料や次世代電子・磁気デバイスを開発するには、物質中の電子のエネルギー・運動量・スピンを高精度で観測する事が不可欠です。そのため、高いエネルギーおよび角度(運動量)分解能、かつ高いスピン分解能力を兼ね備えた装置の開発が切望されてきました。

研究の内容

研究グループは、電子のスピンを高感度で検出できる低速電子回折型スピン検出器(以下、VLEED検出器という)を新たに開発し、電子のエネルギーと角度(運動量)を精密に測定できる大型半球型エネルギー分析器と組み合わせることで、「高効率スピン分解光電子分光装置」の開発に成功しました(図1,2,3)。モット散乱*4を利用した従来のスピン検出器は、スピン分解能力が0.1、検出効率が10000分の1程度で、様々な改良を行なっても検出効率がせいぜい数倍程度にしかならず、飛躍的に性能を上げることが困難でした。そこで本研究グループは新しいタイプのスピン検出器(VLEED検出器*5)を開発し、スピン分解能力を3倍以上に向上させ、検出効率を100倍向上させました(図7)。VLEED検出器は1989年にそのスピン検出能力が実証され、高効率でスピン検出が可能であることが報告されていましたが、検出器で用いている磁性体ターゲット表面が急速に劣化してしまうためこれまでほとんど実用化されていませんでした。研究グループはターゲットをあらかじめ非常に薄い酸化膜で被覆する事によりこの問題を解決し、数ヶ月以上にわたって安定にスピン検出を行う事を可能にしました。このようなスピン検出器の高度化・高効率化がブレークスルーとなり、スピン分解光電子分光装置としては世界最高分解能であるエネルギー分解能7.5meVと角度分解能0.4°以下を達成することができました(図4)。これまでの装置と比較してエネルギー・角度(運動量)分解能をそれぞれ10倍以上向上させた事を意味します。これにより従来の装置では識別困難な物質中の電子スピン状態のわずかな違いを捉えることができるようになりました。本装置は、HiSORの高輝度放射光源(偏光可変準周期アンジュレータ*6)ビームラインに建設されており、放射光の特長を活用することにより、特定のスピンや運動状態にある電子を選択的に可視化することも可能になります(図5,6)。

今後の展望

これまで電子の流れ(電流)を制御するエレクトロニクス(半導体メモリー、集積回路など)と電子のスピンの向きを制御するマグネトロニクス(ハードディスクなど)がそれぞれ独立に発展してきました。次世代の新しい低消費電力の多機能素子の開発では、電子の流れとスピンを同時に制御するスピントロニクス*7が主役になると考えられています。その実現のために特に重要なのが、素子を構成する新材料の開発研究です。本研究で開発された装置は物質科学の基礎研究に大きなインパクトを与えると同時に、次世代スピントロニクス材料の開発研究にも貢献することが期待できます。

研究体制

本研究は、日本学術振興会の科学研究費補助金:基盤研究(B)「高効率スピン偏極光電子分光による表面磁性の研究」(2007〜2009年度、研究代表者:奥田太一)、基盤研究(B)「空間反転対称性の破れたナノ超伝導体のスピン分解フェルミオロジー」(2008〜2010年度、研究代表者:木村昭夫)の支援を受けて得られました。

図1:HiSORに建設された高分解能スピン・角度分解光電子分光装置

図2:開発した高効率スピン・角度分解光電子分光装置の概略図(全体)
高エネルギー角度分解能の光電子アナライザーと高効率スピン検出器が組み合わされている。

図3:開発した高効率スピン・角度分解光電子分光装置の概略図
エネルギーと角度を高精度で分析した後、スピン検出器によりスピンの向きを決定する。

図4:高効率スピン・角度分解光電子分光装置による測定の例。表面で上向きスピンと下向きスピンの分布が異なるBi(111)表面の測定結果。明確に上向きスピンと、下向きスピンの電子の状態(スペクトル)を観測できている。高効率のためエネルギー分解能、角度分解能が従来の10倍に向上した。

図5:(左)黒線は、角度を変えながら測定した電子のエネルギーと光電子の強度の関係を表すグラフ(角度分解光電子スペクトル)。赤線と青破線はそれぞれ上向き、下向きの電子スピンに分離したグラフである。(右)上向きスピンと下向きスピンの強度の差(スピン偏極度)と電子のエネルギーの関係を表すグラフ。効率が上がり、高速に精度よく測定できるようになった(1スペクトルあたり12分で測定)。

図6:(a)スピンを分離しないときの電子の運動状態を表すイメージ。(b)スピン偏極度のイメージ。(c)上向きスピンをもつ電子の運動状態を表すイメージ。(d)下向きスピンをもつ電子の運動状態を表すイメージ。(c)と(d)から明らかなように、電子スピンの向きによって運動状態を表すイメージが異なる。

図7:VLEED検出器のスピン検出原理
磁性体ターゲットの磁化の方向を変えると電子の反射確率がスピンの向きによって変化する。 これを利用する事により電子スピンの向きの偏り(スピン編極度)を観測することができる。
スピン検出能力と電子の反射率が高いため従来のスピン検出器に比べ100倍の効率で観測できる。

用語解説

注1)光電効果

物質に紫外線やX線を入射すると電子が物質の表面から放出される現象です。物質外に放出された電子は光電子とも呼ばれます。この現象は、1905年に、アインシュタインの光量子仮説によって理論的に説明されました。アインシュタインは、この業績でノーベル賞を受賞しています。 戻る

注2)角度分解光電子分光

結晶の表面に紫外線を照射して、光電効果により結晶外に放出される電子のエネルギーと運動量を同時に測定する実験手法です。この方法により、固体中の電子のエネルギーと運動量の関係(これをバンド分散といいます)を決定でき、決定された微視的なバンド分散から物質の示す様々な巨視的な性質を説明することができます。 戻る

注3)スピン

電子の自転に由来した磁石の性質のことです。自転の方向に対応して、電子には上向きスピンと下向きスピンの2種類の状態があります。通常の金属や半導体では、同じ数の上向きスピンと下向きスピンの電子が存在するため、互いに打ち消していますが、強磁性体(磁石)では片方の向きのスピンの電子の数が多くなるため、その差に比例して磁化が発生します。 戻る

注4)モット散乱

非常に高いエネルギー(20 kV以上)を持った粒子を金等の原子番号の大きな物質に衝突させると粒子の左右の散乱確率が、その粒子の持つスピンの方向により変化します。1929年にイギリスの物理学者ネヴィル・モットによって理論的に提唱されたためその現象をモット散乱と呼びます。モット検出器は、上記の散乱現象を用いて、左右対称に電子検出器を設置し、散乱電子の差を観測する事で電子のスピンを分析するスピン検出器です。ネヴィル・モットは1977年に磁性体の理論研究でノーベル物理学賞をとっています。 戻る

注5)低速電子回折(VLEED)検出器

鉄単結晶などの磁性体をターゲットとして低速電子を入射させた際、ターゲットの磁化方向と電子のスピンの向きによって反射強度が大きく異なるという現象があります。VLEED検出器はこの現象を利用し、磁性体ターゲットの磁化プラス方向とマイナス方向のそれぞれの反射強度を観測する事によりスピンを分離する検出器です(図7)。この場合、反射強度はモット散乱よりも10倍ほど強く、スピン分解能力も3倍ほど大きいことが報告されています。その結果全体としてモット検出器の100倍近い検出効率が得られます。 戻る

注6)偏光可変準周期アンジュレータ

アンジュレータは、周期的な磁石の配列により作られる周期的な磁場中を電子が蛇行する際に、発生する光同士が干渉し強め合う事により非常に輝度の高い光を作り出すことができる放射光発生装置です。その磁石の配列により様々な偏光を持った光を作り出すことが可能です。しかし、基本波のエネルギーをもつ光の他に整数倍のエネルギーを持つ光も混在して発生し、これは回折格子等を利用しても取り除くことが困難です。準周期アンジュレータは、その磁石の周期性を準周期にすることで、高次の光のエネルギーの寄与を取り除き、非常に単色性の高い光を取り出す事ができる新しいアンジュレータです。また、磁石の配列を組み替える事なく、上下左右に付いている磁石の位置をずらす事で、一台で光の偏光を水平・垂直、右・左周り円偏光と変化させることができるという特徴があります。偏光をうまく利用すると特定のスピンや運動状態にある電子を選択的に可視化することができます。 戻る

注7)スピントロニクス
電子の電気的性質である電荷と磁気的性質であるスピンの両方を利用して動作させる全く新しい電子素子(トランジスターやメモリーなど)技術のことです。この技術の究極の形として、電子1個1個のスピンアップとダウンをそれぞれ電気信号の「1」、「0」に置き換えて信号処理を行う事が考えられています。これにより、微弱な電流でも明瞭に区別できるため、低消費電力の次世代電子素子の最有力候補として研究が進んでいます。 戻る